阪神大震災の被害にあうまでは、母の介護なんて考えたこともありませんでした。ましてや、嫌いな母と同居なんて考えることなどなく、自由な自分の生活を楽しんでいたと思います。
そんな私が、母の介護をすることになったのです。
母とは離れて暮らしていたこともあり、どう手を差し伸べていいのか分からずに、不安な毎日を過ごしていました。時折同級生に母の様子を見に行ってもらったり、知り合いの看護師の方に訪問していただいたり、私自身も毎日電話をかけ三ヶ月に一度帰るという生活を数年続けました。
私が40歳になった頃、電話の向こうの母の様子が時折おかしく感じることがしばしばありました。母はまだ73歳。老人大学にも通い元気で過ごしておりましたが、年に一度寝込むこともあって、不安は取り除けなくなっておりました。
というのも、祖母のことが頭にあったので……。祖母が83歳の時、認知症が発覚しました。その時にはもう時すでに遅しで、入院し数ヶ月でこの世を旅立ちました。当時、私は仕事をしながら東京-神戸間を介護のために往復しておりました。兄弟たちは別所帯をもって生活していますので、あてになりません。自由が効く独り身の私に、すべてが降りかかってきます。大好きな祖母だったので、終期まで見守ることは私の最大なる祖母へのお返しだったと思います。
母の認知症は、もうこの時点で始まっていたようですが、気づくことなく数年が過ぎ去りました。母が住む一軒家は、モノで埋め尽くされておりました。ちょうどこの時、私自身が仕事を辞めたこともあり、大学三年編入(通信)で福祉を学びました。頭ではすべて理解できると思っていました。母の認知症は、もうこの時点で始まっていたようですが、気づくことなく数年が過ぎ去りました。母が住む一軒家は、モノで埋め尽くされておりました。ちょうどこの時、私自身が仕事を辞めたこともあり、大学三年編入(通信)で福祉を学びました。頭ではすべて理解できると思っていました。
80歳~85歳までの間に母は鬱を患い、それが一気に認知症へと変化していきました。暴言の毎日、検査を受けるように勧めれば「親を馬鹿にして」と本当に親子なの?と思うほどひどい毎日が続きます。
身体は元気ですので、私の中にも「まだまだ違うかな?性格なのかな?」と疑問を感じることもありました。けれど、自転車での転倒が多くなり、行くべき場所に辿り着かないでなかなか戻らない日々が多くなってきました。喧嘩も絶えませんでした。時折放り出したいという介護放棄状態になり、母を放置し、旅行に出かけたりしておりました。
時折、母が穏やかな日に「認知症について」を説明しまくりました。「人間誰しも年をとれば脳が劣化するんだよ。例えば、本を毎日めくればやぶれたりするのと同じ、そしてノートをしまう棚や机の引き出しも溢れかえるよね。それと同じ。それが、物忘れや思い通りの行動ができなくなるということなの。」と一生懸命、母に分かるように噛み砕いて説明をしていきました。
母と私、お互いに辛い時期を経て、母は無事卒寿を迎えました。