毎朝、胸のズーンとした重苦しさに起こされて、今日も死んでなかったと落胆しながら始まるうつ病の日々でした。
あれもできない、これもできない。これからもできないんだろうな。なんで生きてるのかな。そんなに自分は悪いことしたのかな。気晴らしに外に出ようとしても動悸がしたら怖い。バスにもエレベーターにも乗れないし、映画館にも怖くていけない。どこに休まる場所があるのかな……こんな日々が約1年続きました。当然、仕事はまともに8時間働けず、勤務時間の短いシフトにしてもらい、それでもやむを得ず休むことがあったり、出勤できても職場にいる間いつ苦しくなるか分からず不安で、静かに深呼吸を繰り返す毎日でした。
そんなとき、通っていたクリニックの先生のアドバイスを受けて、“散歩”をやってみることにしました。何もできないと言いながら、歩くことはできるのです。これは五体満足で健康なら、まず実感さえしないこと。暗くて小さくなって暮らしていた私に微かな光が降りてきました。まずは、呼吸が絶対乱れないくらいのゆっくりのペースで歩きました。最初は町内をぐるっとひと回りで5分くらいの散歩でしたが、だんだん歩いても動悸が起こらないと確信ができてきて、少しずつ距離を伸ばして少し離れた公園まで到達することができるようになりました。ものすごい達成感でした。風がとても気持ちよく感じられ、体中から充実感が得られました。毎日数メートル、もしくは1分ずつじわじわ積み上げてきた努力が実を結んだような気がしました。雨の日はお休みしましたが、この散歩を1年間続けました。すると、その間に体の調子も少しずつ良くなっていったのです。
太陽の光にあたることで(といっても夕方からしか外に出られなかったのですが)、体内時計が修正され、空腹も感じられるようになり、調子の良い時には、風の音に隠れながら鼻歌を鳴らし、小雨が降ってくると早歩きまでできるようになりました。
当たり前のことができない。当たり前のことができる。だけど、誰にとっての当たり前なのか。その疑問にぶつかったときに、なんとなくですがうつ病になった意味を考えられるようになりました。自然の中をただ歩くこと。好きなペースで歩けること。風の表情を感じられること。空の色の変化に気づけること。田んぼや木々の匂いを感じられること。好きなことを妄想できること。これまで“散歩”という言葉からこれだけの可能性を考えたことはありませんでした。そして、今も習慣で歩いています。治療ではなく、ストレス発散で。
うつの経験を経て、いろいろな気づきがありました。